「おめでとう!」
お久し振りです。
生きています。
もう梅雨なんですかねえ。
雨降ってます。
昨日はあんなに暑かったのに、7度差らしいです。
↓月日の呪縛(笑)
あのですね…。
前のブログから私を見てくださっている方ならご存知かと思いますが、
誕生日が近いんですね~。
20歳になる訳ですよ。
またおめでとうって言われるんですね。
つらいことば。
私は大人になりたくない訳ですね。
5、6歳の誕生日の時点で既に「嫌だな~」と思っていました。
その頃の私が何故誕生日を嫌がっていたのか、
未だによくわからないし、もう憶えていません。
小さい頃に出会った大人は皆悪い人ばかりでした。
接触が多い大人ほど、悪い人でした。
何か腹の中で悪い事を考えていて、でもそれを隠しています。
隠しているのですが、思い通りにいった時のあの気持ちの悪い笑顔、
そして思い通りにいかなかった時のあの、少し眉を上に上げた顔が、
私は怖かったです。
子供たちのおめでとうは、本人も何故おめでとうと言うのかわかっていないままで、
儀式的に聞こえました。
ただそこに無垢な笑顔ときゃっきゃという素直な笑い声が混じって、
私には少し釣り合わないけれど、今思えばとても綺麗なものの様に感じます。
大人たちのおめでとうは、感謝しろ、と聞こえました。
あるいは違う種の儀式でした。
社交辞令と言うやつです。
プレゼントを貰う時の申し訳無さはきっと、
買ってやったんだ、「いい子」にしていろ、と言う無音の暗号を
読み解いていたからだと思います。
友達や家族におめでとうと言われたりプレゼントを貰うのは、
「みんなの私」の役目です。
どう言う反応をすればみんなは気分を悪くしないだろうか、
ほら、嬉しい、良かったね私!と必死になって悲しい気持ちを閉じ込めます。
皆と別れた後も、しばらくは「みんなの私」が残っていて、
「本当の私」に、今日は楽しかったね!と語りかけてきます。
「みんなの私」がいつの間にかいなくなると、どっと疲れが襲ってきて、
ついでに物凄い感情の洪水に飲み込まれてしまいます。
皆はどんな気持ちで自分の誕生日を迎えてきたのでしょうか。
嬉しかったのかな。
私はどんな顔してこれからのおめでとうを受け止めればいいのでしょうか。
卒業祝いのwalkman買ってもらいました。
いい子にしておけよ。